2025/12/05
登記簿謄本(履歴事項全部証明書)を見ると、役員欄に下線が引かれた記載がある。これは「抹消事項」と呼ばれ、すでに退任した役員の情報だ。
下線が引かれているとはいえ、その情報は消えているわけではない。退任した役員の氏名、就任日、退任日——そして住所が、そのまま記載されている。
ここで一つの疑問が浮かぶ。すでに退任した、あるいは退任して何年も経った人物の住所を、登記簿に載せ続ける合理的な理由はあるのだろうか。そしてその理由は、もはやその会社の役員ではない人物の個人情報をさらし続けることを正当化できるものなのだろうか。
登記簿に役員の住所が載る理由
そもそも、なぜ登記簿には役員の住所が記載されるのか。
会社法上、取締役や監査役などの役員は、会社の経営に重要な責任を負う立場にある。株主や債権者、取引先といった利害関係者にとって、「この会社を動かしているのは誰か」「その人物にどうやって連絡を取れるか」という情報は重要だ。
役員の住所が登記されることで、以下のような機能が果たされる。
1. 本人特定機能
同姓同名の人物を区別するため、住所が本人特定の手段となる。「東京都千代田区○○の山田太郎」と「大阪府大阪市○○の山田太郎」は別人であることが分かる。
2. 送達先としての機能
役員に対して法的な通知や訴状を送達する際、登記簿上の住所が送達先として使われることがある。
3. 責任追及の手段
役員が会社に損害を与えた場合、株主代表訴訟などで責任を追及するとき、役員の所在を把握するために住所が必要になることがある。
退任した役員の住所が残る理由
では、なぜ退任した役員の住所も登記簿に残り続けるのか。
履歴事項全部証明書は、その名の通り「履歴」を記録した証明書だ。会社の変遷——役員の交代、商号の変更、本店の移転など——を時系列で追えるようにすることが目的である。
退任した役員の情報が残っているのは、この「履歴としての記録」という性質による。過去にどのような人物が役員を務めていたかを確認できることには、一定の意味がある。
また、役員の責任追及には時効がある。取締役の任務懈怠責任の消滅時効は、原則として10年だ。退任後も一定期間は責任追及の可能性があるため、その間は住所情報が必要——という理屈も成り立つ。
しかし、その理屈は十分だろうか
理屈は分かる。しかし、現実の運用を見ると、疑問が残る。
1. 「履歴」の必要性はどこまであるか
確かに、過去の役員構成を知りたい場面はある。しかし、それは「誰が役員だったか」という情報であって、「その人がどこに住んでいたか」まで必要だろうか。
会社の履歴を確認する目的であれば、氏名と就任・退任の日付があれば十分なはずだ。住所まで公開し続ける必要性は薄い。
2. 時効期間を過ぎた情報はどうなるか
責任追及の時効は10年だ。では、退任から10年以上経った役員の住所情報に、どのような合理性があるのか。
履歴事項全部証明書には、過去3年分程度の履歴が記載される。しかし、閉鎖事項証明書を取得すれば、それ以前の情報——何十年も前に退任した役員の住所——も確認できてしまう。
3. 住所は変わっている可能性が高い
退任から何年も経てば、本人が引っ越している可能性は高い。古い住所が登記簿に残っていても、送達先としての機能は果たせない。
むしろ、古い住所に現在住んでいる別の人物に迷惑がかかる可能性すらある。
個人情報保護の観点から
ここで、個人情報保護という観点を考えてみたい。
登記簿は誰でも取得できる公開情報だ。手数料を払えば、誰でも任意の会社の登記簿謄本を取得し、役員の住所を知ることができる。
現役の役員であれば、会社経営に伴う責任として、一定の個人情報公開を受け入れる必要があるかもしれない。しかし、退任した役員はどうだろうか。
退任した時点で、その人物は会社の経営から離れている。株主や債権者に対する説明責任も、基本的には終わっている。それにもかかわらず、住所という個人情報が公開され続けることに、どれほどの正当性があるのか。
特に問題になりうるのは、以下のようなケースだ。
・DV被害者が役員だった場合
過去に会社の役員を務めていた人が、その後DVなどの被害に遭い、加害者から逃れるために転居したとする。しかし、登記簿には過去の住所が残っている。加害者が登記簿を取得すれば、その住所を知ることができる。
・ストーカー被害のリスク
著名人や一定の社会的地位にある人物が役員を務めていた場合、登記簿から住所を調べてストーカー行為に及ぶリスクがある。
・詐欺やなりすましへの悪用
住所と氏名の組み合わせは、詐欺やなりすましに悪用されるリスクがある。退任して何年も経った人物の情報が、悪意ある第三者に利用される可能性は否定できない。
海外との比較
海外では、役員の住所をどのように扱っているのだろうか。
イギリス
イギリスでは、2006年会社法の改正により、取締役の住所は「通常の居住国」のみを公開し、詳細な住所は非公開とすることが可能になった。これは、取締役のプライバシー保護を目的とした改正だ。
アメリカ
アメリカでは、州によって異なるが、デラウェア州など多くの州では、取締役の住所を登記事項としていない。会社の登録代理人(Registered Agent)の住所が記載されるが、取締役個人の住所は公開されない。
ドイツ
ドイツでは、商業登記簿に取締役の住所が記載されるが、EU一般データ保護規則(GDPR)の施行以降、プライバシー保護の観点から議論が続いている。
このように、海外では役員の住所公開を制限する方向に進んでいる国もある。日本の制度は、国際的に見ると、役員の個人情報保護という点でやや遅れていると言える。
日本でも見直しの動きはあるが……
実は、日本でもこの問題は認識されている。
2022年の商業登記規則の改正により、DV被害者等については、申出により住所を非表示にできる制度が導入された。これは一歩前進だ。
しかし、この制度は「申出があった場合」に限られる。自ら手続きを行わなければ、住所は公開されたままだ。また、過去に退任した役員が遡ってこの制度を利用できるかどうかも、運用上の課題がある。
根本的な問題——「退任した役員の住所を公開し続ける必要があるのか」——については、まだ十分な議論がなされていないように思える。
翻訳実務への示唆
登記簿の英訳という観点では、以下の点を意識しておくと良い。
1. 下線(抹消事項)であることを明示する
英訳においては、抹消された情報であることを明確に示す。「(Cancelled)」「(Former)」「(Resigned)」などの注記を添えることで、現任者と退任者を区別できるようにする。
2. 住所の取り扱いについて依頼者と確認する
海外提出用の英訳において、退任した役員の住所まで訳出する必要があるかどうか、依頼者と確認しておくと良い。提出先によっては、現任役員の情報だけで足りる場合もある。
3. 個人情報への配慮を伝える
登記簿には個人の住所が含まれていることを、依頼者に伝えておく。翻訳後の書類がどのように使われるかによっては、住所部分のマスキングなどを検討することもある。
まとめ
登記簿に記載された役員の住所は、現役の役員については一定の合理性がある。本人特定、送達先、責任追及といった機能を果たすためだ。
しかし、退任した役員の住所が登記簿に残り続けることについては、疑問が残る。履歴の記録という目的であれば、氏名と就任・退任日があれば十分であり、住所まで公開し続ける必要性は薄い。時効期間を過ぎた情報、引っ越して古くなった住所に、どれほどの意味があるのか。
一方で、個人情報保護の観点からは、退任した役員——もはやその会社の経営に関与していない人物——の住所が公開され続けることのリスクは小さくない。DV被害、ストーカー、詐欺への悪用といった問題がある。
「登記簿の公開性」と「個人情報の保護」のバランスは、今後さらに議論されるべきテーマだ。海外では役員の住所公開を制限する方向に進んでいる国もあり、日本の制度も見直しの余地があるのではないだろうか。